0403 補聴器とは自分の声を聞くもの



 10月19日の日曜に森脇さんと我々両名の共通の友人Sさんと銀座のビアホールで落ち合いました。Sさんは私と同年輩で難聴仲間でもあります。席に着くや否や彼は言いました。「佐藤さん、今日はとっても響きの良い声をしてるねー」。 

 こう言われたのは二度目なんです。ヘンテコな台風が九州をタスキ掛けに横切って豊後水道を渡り倉敷を襲いました。水が出て人一人死んだとのニュースなので甥の所に見舞いの電話を入れました。電話に出た甥の嫁さんが最後に言いました。「今日は良い声してらっしゃいますね。耳の聞こえも何時もより随分良いみたいですし」「え?聞こえが違うって?」「ええ、何時もは聞こえてないな…と判りますもの」「アーッ、これまでは調子を合わせてくれていたわけだ。そいつはどうも失敬しましたね。有り難う」。と言うわけですが、これはわけがあるのです。毎朝大声で祝詞(ノリト)の真似事をしているせいに決まっています。少し詳しく話しましょうか。

  私は毎朝両親と長兄と弟の写真にお茶を上げてお経をあげるのを習慣にしています。宗旨が曹洞宗ですから般若心経と大悲心陀羅尼…ナムカラタンノートラヤーヤーと言うの…を唱えます。2ケ月前から姉の亡くなった御亭主の写真が加わりました。この家は神道ですからお経ではまずい。それで大祓詞(オオハラエノコトバ)と祖霊拝詞を加えることしました。

 お経の上げ方には年期が入ってますが祝詞はかなり昔に教わったきりなので少々心もとないところがある。それでも「こんな感じだったな」と始めたのです。続けてはいましたが、どうも今一つ調子がつかめません。とうとう葉室頼昭という先生の[大祓 知恵のことば]というCDつきの薄い本を買ってきました。この先生は外科のお医者さんですが春日大社の宮司でもある、変な人です。

    この春日大社の神職全員による大祓詞のCDを聞いたら私がやっているのとはテンポがまるで違うのです。「たーかーまーのーはーらーにーかーむーづーまーりーまーすーかーむーろーぎーかーむーろーみーのー」と一字一字明瞭に発音し悠々と唱えています。テキストを見たら更に「楽しくやらなきゃいけない」とあります。

  ああ、そういうことなのか、わかった…と、早速CDの声と自分の声とを一緒にヘッドホンに送り込んで一声一声チェックしながら唱え始めました。何しろ目下防音完備のマンションでの独り暮らしですから誰にも遠慮はいりません。文字通り朗々とやる。大変気分がいい。これを毎朝やっているんですから「響きの良い声してるね」と誉められるのは当たり前みたいなもんですね。

  さて、年寄りの脳には淋しい思いをさせるのが一番良くないようだと書きましたが淋しい思いとは何でしょうか?
私が淋しいと感じ始めたのは何時頃のことだったか、腕組みして考えてみました。どうやら自分の足音が聞こえなくなったあたりではないでしょうか。夜遅く帰る、靴の音がコツコツ聞こえていたのが何時しか聞こえなくなっている。自分が幽霊になったような気がしました。ああ、歩くときでも補聴器がいるんだなぁと意識した。あのへんらしいですね。

   補聴器を皆さんは対話のため相手の声を聞くためのものとお考えでしょうが、本当はまず自分の声を確かめるためにあるものなのですね。私が補聴器を外したら大声張り上げても聞こえません。このまま話し始めたら数分もたたぬ内に発音も声の大きさもメチャメチャになってしまうに決まっています。その前に話すのを止めてしまうでしょうね。補聴器を通して自分の声と相手の声を絶えず比較しながら発音を調整しているのです。

  淋しさということについてもう一つ。独り暮らしをしていると日曜の夜になって「ああ、今日は一言もしゃべらなかったな」と意識することがあります。やらなくてはならないことに追われて淋しさを感じている暇なんて全然ない私なのですが、それでもフッと意識することがある。なんにもやることがなくなって、耳が遠くなって、人が相手にしてくれなくなって、自分の声すらも聞こえなくなったら誰だって何時かはきっとボケルだろうと思いますね。

   年寄りを耳の聞こえないままにしておいてはいけません。昨日も愛媛に両親がいらっしゃるという方が相談に来られました。私は親身になってお相手するのです。「補聴器以前の練習機」を喜んで貸してあげました。いずれ皆さんにも自作して頂くことになっていますが…。モーツアルトを聴くのも勿論結構ですが、まず自分自身の声を聴くことの大切さを真剣に考えてみて下さいませんか。

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