0302 敗戦直後に聞こえなくなった右耳



 日本が戦争に負けたとき私は中学2年生でした。秋田のような田舎でもB29が爆弾を落としに来ましたし、突然グラマン戦闘機が現れて地上の民間人目がけて見境もなく銃撃を加えたりしました。危なくてうっかり海水浴になんか行けない時代でした。

 その心配がなくなって私は真っ先に海に行きました。その夜中に突然右耳が痛み出して寝られぬ儘朝を迎えました。姉が一晩中タオルを水で絞っては冷やしてくれたのを昨日のことのように思い浮かべることができます。

 朝になるのを待って赤ん坊のとき命を救って下さった佐藤先生に行きました。急性中耳炎とのことでした。 何日か通ったある日、治療を終わって椅子から降りようとした私に先生がポツンと言いました。「明日はもう来なくて良いよ」。「エ?でも、まだ良く聞こえないんですが」。先生はクルッと後ろを向きました。「君の耳はね、もうそれ以上良くはならないんだよ」つぶやくような声でした。

 「えっ!まさか…」という声は声になりませんでした。なんだか先生の肩が泣いているように見えたからです。私は黙って椅子を降りペコリと頭を下げて診察室を出ました。トボトボと家へ帰ったら悲しみがこみあげてきました。命の恩人の先生が駄目とおっしゃった以上は望みはないのでしょう。

 私は少年飛行兵になるか陸軍幼年学校に行くかして「鍾馗」という戦闘機に乗って死ぬのだと心に決めていました。それ以外のことは考えてもいませんでした。戦争に負けて戦闘機に乗れなくなった途端に耳をいけなくするとは何という運命の皮肉でしょう。「お前はもういいんだ」と言われているような気がしました。

 あの頃はオーデイオメーターなんて無かったし何デシベルくらいだったのか?感じとしては聞こえが半分くらいに落ちたような気がします。人と並んで歩くとき右側に回るのが癖になりました。ステレオ音響が生まれるのはそれから20年近く後のことですが、私は一度もステレオの音を聞いたことがありません。モノラルでも片耳がしっかり生きていただけ有難いと思わなくてはならなかったのでしょう。

 身体障害者手帳には私の耳は両方とも感音性と書かれています。しかし、現在ある程度補聴器が使えると言うことは中耳炎を原因とする伝音性難聴に後年のメニエールの影響が被さって混合性というべき状態にあると自分では考えています。右耳の聴力は48才の時には60dBに、70才では78dBになっていましたが、その1〜2年前はもっと悪かったことは確かです。それが僅かながら良くなった。今は更にもう少し良くなったと自覚します。そのことはまたいずれ。


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